野蒜と海 2

明治15年10月に、野蒜では突堤落成式が盛大に行われます。
この突堤は第一期工事による内港のものであり、
この後に第二期工事として外港の突堤が造られる予定でした。
その場所が宮戸島です。

宮戸島の東側に予定防波堤と書かれています。

宮戸島は野蒜海岸の南端に位置しています。
ここには里浜貝塚を始めとするたくさんの貝塚が残されていて、
縄文時代から人が海とともに暮らしていたことがわかっています。

海とともに暮らした長い歴史の中には様々な出来事がありました。

南北朝のむかし、後醍醐天皇の皇子である護良親王が逃れてきたという伝説が宮戸島にはあります。
その着いたところを月浜と名付けたと言います。

また多十郎の墓もあります。

          (写真:東松島市観光協会HPから)
寛政5年(1793)に石巻港を出港した若宮丸はいわき沖で遭難します。
その若宮丸に宮戸島の多十郎も乗っていました。
漂流ののちロシアにたどり着き、多十郎を含む数名はヨーロッパを回って日本に戻る道を選び
文化元年(1804)に帰りつきました。これが日本で初めての世界一周であると言われています。
今でも東松島市には多十郎の子孫の方が暮らしていると聞きます。

海からは様々なものが流れ寄り、そして去っていったことでしょう。

大浜には仙台藩の唐船番所が設けられていました。
まさに広がる海と向かい合ってきた場所でした。

縄文村歴史資料館には津浪の被害はなく、避難所本部とされているようです。
浜辺の民宿などは大きな被害を受けています。

なかなか手が回っていないところも多いようです。