2011-04-01から1ヶ月間の記事一覧

野蒜と海 2

明治15年10月に、野蒜では突堤落成式が盛大に行われます。 この突堤は第一期工事による内港のものであり、 この後に第二期工事として外港の突堤が造られる予定でした。 その場所が宮戸島です。 宮戸島の東側に予定防波堤と書かれています。宮戸島は野蒜海岸…

突然ですが、今お世話になっている松島町の施設も明日で退去です。 こんな場所が隣町にあったことを知らなかったのが残念な位 自然環境に恵まれていました。次に提案された避難所は更に家や町から遠くなります。 車の免許を持たない私にとっては厳しい状況な…

石井閘門

野蒜から石巻へと続く運河が北上運河です。 (写真:野蒜築港資料室HPより) 北上運河が北上川と繋がるところに石井閘門があります。 水位調節と船の運航等のために築造された煉瓦と石による西洋式閘門です。 明治13年竣工で現存最古であり、平成14年5月には…

野蒜と海

野蒜海岸に佇む不老山のその呼び名は「絶勝の地びとをして老いざらしむに足る」と 伊達政宗が名付けたと言われています。 昔から風光明媚な場所として知られていました。 (東北芸術工科大学東北文化研究所アーカイブスより)かつては波に洗われていたこの場…

新市街地 3

草原が広がる新市街地跡に残されたものに、 紀功之碑(内務一等属黒澤敬徳碑)があります。 工事に殉じた土木局野蒜出張所第二代所長黒澤敬徳氏の功績を称え、 彼の経歴と野蒜築港事業の壮大さを刻んだ井内石製の大きな碑(明治17年(1884)2月建立)。 そば…

余景の松原

「自然の中に生きた者は自然と格闘しつつ第二次自然を作り上げていった」『日本人と自然』の冒頭で宮本常一が書いています。 (『自然と日本人』宮本常一 未來社 2009 ※この文章の初出は昭和48) 「海岸につづく松原なども、自然に生えた木はほとんどない」…

資料室 2

資料室は2階にあり、1階には公民館があります。 ※以下の写真は後藤浩佳氏によるものです。 公民館は避難所だったようですが水が来ました。資料室に上る階段です。 ガラスが割れています。 地震ではなく津浪で流されてきたものがあたったのでしょう。資料室の…

資料室 1

資料室の外観の写真を4月5日の記事に載せました。 流されず、大きく崩れることもなく立ち続けていることはお伝えできたと思います。後藤浩佳氏からより詳細に撮影した資料室の写真を提供いただきました。資料室へ入る道から眺めたものです。 こちら側には被…

 3

夜が明けても雪は降り続きましたが、泥水の中を徒歩と軽トラックへの便乗で 最初の避難所、定林寺へ向かいました。 携帯電話はすでに規制がかかったのか通信は遮断されていました。お寺は書院も本堂も満杯の状態でしたが、屋根と畳とトイレのある環境が どん…

新市街地 2

明治18年、野蒜築港事業は中止され、そのまま放棄されました。 貸下げられていた新市街地ですが、そこに作られた米商会所や測候所、 電信分局などは次々と移転していきました。 商売をしようとしていた人々は去り、やがて新しい農地を求めた人々が入ってきた…

あの日 2

地震の被害がそれほどではないことを確認し、猫を探して家に入れ、 避難場所である公園に向かいました。 忘れ物を取りに戻るかどうか迷っている矢先、「(津波が)もうそこまで来たぞ!」という声が聞こえ、慌てて小高い山の斜面にある神社の境内に登りまし…

新市街地

野蒜築港は日本で初めての近代港湾の建設プロジェクトでした。 このプロジェクトでは港の建設だけではなく、港の後背地として河口に新市街地が計画されました。 陸前国桃生郡野蒜港近傍測量明細繪圖(仙台市民図書館所蔵) 市街地には下水道が整備され電線が…

あの日 1

※野蒜築港資料室で中心的に活動しているのが松川清子さんです。 現地を訪れた方の中には、彼女の人柄に触れた人も多いのではないでしょうか。 落ち着かない中無理を言って、彼女のコメントを頂きました。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 避難所に…

新東名

新東名地区の片付けのお手伝いをさせてもらいました。仙石線の野蒜駅から仙台方面へ一駅隣が東名駅です。 海から運河とこの東名駅を越えて内陸側が新東名という住宅地になります。大きな地図で見る海からの距離があること、地形の凹凸があることなどから海岸…

仙台空港

番外編です。 野蒜には直接関係ありませんが、4月9日に仙台空港周辺へ車を探しにいってきました。 震災の2日前、私は仙台空港から宮城を発ち関西に行っていました。仙台空港は4月13日から再開されるそうです。 しかし、まだ周りは津波に襲われた状態を残し…

東名運河 2

野蒜から東名に掘られた東名運河は、野蒜に住む人たちにとって身近なものでした。 昔はハゼを釣ったり、泳いだりしたという話をたくさん聞くことができます。 (2011/04/04撮影) 運河からみた野蒜築港資料室です。 運河を挟んで向かい側(海方面)が新町に…

新町 2

野蒜海岸は昔から海水浴場として人気のある場所です。 昭和初期には現野蒜駅は「東北須磨駅」という名前がつけられ 当時の宮城電鉄(後に国有化されて国鉄に)が、海岸にプールを作ったり イベントを開催するなどして賑わった場所でした。 (東北芸術工科大…

東名運河 1

鳴瀬川から、野蒜駅方向に続く東名運河の入口です。 水門が閉められた状態です。 (2011/04/01撮影)この運河も築港事業の一環として掘られたものです。 この運河が(途中松島湾等を経由して)貞山堀に繋がり阿武隈川へ続きました。運河クルーズなども開催さ…

新町 1

野蒜築港資料室からすぐの新町に続く道です。 (2011/04/01撮影) 新町とは築港当時に 「野蒜新町 箒はいらぬ 若い女の裾で掃く」 と歌われた場所です。 築港工事が去り、土木景気も去りましたが、残った人々もたくさんいました。 当時から続くお家もかなり…

突堤

野蒜築港資料室横から眺めた突堤です。 (2011/04/01撮影) 手前が鳴瀬川で、松林の向こうは海です。 遠いのでわかりづらいですが、突堤は残っているようです。左側の陸地は、かつて新市街地が建設された場所です。 青く見えるのは土手に被せられたビニール…

資料室の状態

野蒜築港資料室の様子です。震災前の資料室はこのような場所でした。 (宮城県HPの写真の転載) 震災後です。(2011/04/01 撮影) 資料室は鳴瀬川の河口にありますが、小高くなっていたために資料室のある2階までは水はこなかったということです。 従って資…

このサイトについて

この度の震災で大きな被害を受けた場所の1つに東松島市があります。ここはかつて日本で初めて近代的洋式港湾建設事業が行われた場所でした。 築港当時に土木局出張所があった場所である鳴瀬川のほとりに、野蒜築港資料室があります。 築港に関する資料や情…