私たちは我慢強いか

4月11日の河北新報の社説の中に以下のような文章がありました。

「震災後、『東北の人は我慢強い』というコメントを幾度となく耳にした。
 その多くは美徳として語られているのだが、少し違うのではないか」

確かに、この約2カ月の間そのような言葉を再々目にし、耳にしてきました。
社説では我慢強いのは生きていくための知恵であった、と書かれています。

しかしそもそも、私たち「東北人」は本当に我慢強いのでしょうか。

明治11年4月12日、野蒜築港が宮城県にもたらされる頃
当時の地元紙である仙台日日新聞の社説には、以下のような文があります。

「最モ当宮城県下ノ如キハ、固ヨリ土塊肥沃ニシテ産物夥多ナリト雖モ
 唯タ人民ノ懶惰ニシテ、勉強耐忍ノ精力ヲ発動スルコト能ハサルカ為メニ
 ミスミス手中ニ領収スヘキ利益ヲ他人ニ褫取セラレテ、足ヲ貧窶社会ヨリ抜キ去ル能ハス」
                   (旧漢字は改め、読点を入れています)

つまり、宮城県は土地が肥沃で物産も豊かであったのに、人々が怠惰であり
勉強や忍耐といった精神を発動できなかったために貧しいのだ、ということです。

このような宮城県人像は特に珍しいものではなく、
少なくとも新聞記事にはしばしばみられるものです。

更に遡ると、文政年間(1818〜1829)には仙台領の風俗として
「高声、なまけ、大食、朝寝、美食、大酒」
と『高名競』に書かれているといいます。

当時の様々な背景があったにせよ、少なくとも130年前あたりには
宮城県人」が忍耐強いというようなイメージは一般的ではなかったと思われます。

築港当時の新聞には、築港でひと儲けをたくらみながらも
失敗してしまい、ふて腐れて仕事をしなくなった人の話や、
農業が嫌になって野蒜へ盗みをしにやってきた話などが出てきます。

また、明治維新当時に仙台藩の下級武士であったけれども、
北海道に移住するのが嫌で脱藩し、その後野蒜に来たという話を聞くこともできます。

何れも忍耐強さとは別物の横顔を伝えてくれます。

築港の前も後も、確かに東北地方はそれぞれにたくさんの過酷な出来事を経てきました。
それが決して遠い昔ではないこと、それらを乗り越えて今に至っていることから
忍耐強いと言われているのかもしれません。

しかし、「忍耐強い東北人」という一様に固定化されたイメージを被せられることには
違和感を感じてしまいます。

震災後多くの言葉に接してきて、誰が誰にむかって発した言葉なのか、
ということがずっと気になってきました。
「忍耐強い東北の人々」という言葉が感動を誘う物語として流布したとき
耳にした「東北の人々」はそれを自負とするでしょう。
雨ニモ負ケズ」の朗読を聴いて、自らを鼓舞するかもしれません。
そしてまた、我慢強い人々が「東北」において生産されていくでしょう。

これまで「東北」は「中央」のために「東北」でありました。
食糧をつくり、風景を守り、提供してきました。
「忍耐強い東北」というイメージは、素朴な人々、温かい人々と同様に
その延長線上にあるあらまほしき東北像に見えます。
その鏡に映った私たちの容貌は、「中央」から与えられたものであると同時に、
自画像として内面化されたものだったと思います。

今回の震災に対するメディアのあり方について
結局は東京に関わることのみが報じられたという批判があります。
被災地側が発する当然の声でしょう。
ただ、ここでさらけ出た距離感を改めて認めて、自らの中に抱えた「中央」を眺め
「東北」であることを考え直す当然の機会なのではないかと思います。

それは鏡に向かい合っている、こちら側にのみ可能なことだと思うのです。

こちら側、東北、被災地、それぞれに濃淡があります。
しかしその中に生きる、傷の少ない人たちは、このとまどいの淀みのなかで
自分たちにも改めて問いかけないといけないと思うのです。

今後の野蒜、東北、未来のために。