記憶/記録/想起

明治29年7月4日の新聞では志津川で聞いた話として
安政3年に起きた津浪について次のように触れられています。

  志津川には度々津波があるが、特に41年前7月23日(安政3年)の津浪の水かさは
  今回のものよりも高く、これを10とすれば今回は7の水である。
  ただし、安政の津浪は徐々としてやって来て、徐々として引いていった。
  家も流れず人も死ななかった。ただ沖の惣吉の家が海岸にあったために引き去られただけであった。
  今度の津浪は急激にやってきたので逃げる暇もなく、幾多の人が死ぬのをみた。
  この辺りの方言に津浪を海膨張(うみふくれ)と言う。
  この名称をとってみても津浪が緩慢なものとして考えられているように思われる。

いにしえから三陸はたびたび津波に襲われていました。
そのたびに教訓のようなものは得られていたに違いありません。
しかし、その記憶が新たな津浪で上書きされていくということもあったように思います。

野蒜にしてもチリ地震津浪の被害を受けた場所です。
そう遠い昔ではありません。

チリ地震の経験があったから、もしかしたら甘くみていたかもしれない。
 本当の津浪はこんなに凄いんだね…」

そんな言葉も聞きました。

3月9日の昼ごろにも三陸沖で地震がありました。宮城県北部では震度5を観測する強めのものでした。
そのすぐ後に私は仙台空港から飛行機に乗りました。
その時も津波注意報は出ていて、空港近くの駐車場でおばさんとその話をしたことを覚えています。
地震にも津波注意報にも、少なくとも私は慣れきっていたように思います。
その日も観測された小さな津浪、そんな数々の津浪に上書きされて来たのかもしれません。

明治29年のこの津浪に関して、宮城県は『宮城県海嘯誌』という本にまとめています。
後世に伝えていこうとする当時の意志の感じられる本だと思います。

いま、新たに上書きされた津浪の記憶が様々に記録されていくでしょう。
徐々に薄まる切実さを乗り越えて、いかに想起していくのか、が問われていくのかもれません。