新市街地 2

明治18年、野蒜築港事業は中止され、そのまま放棄されました。
貸下げられていた新市街地ですが、そこに作られた米商会所や測候所、
電信分局などは次々と移転していきました。
商売をしようとしていた人々は去り、やがて新しい農地を求めた人々が入ってきたようです。
築港の記憶も散りぢりになっていきました。

現在の新市街地跡には何もありません。
航空自衛隊松島基地の騒音問題によって住民が集団移転して
一帯は無人地帯となり、草原が広がる場所となっていました。

それでも少しだけ、ここで築港が行われたことを示すものもありました。


               
「野蒜築港関連事業(野蒜築港跡地・石井閘門・北上運河・東名運河・貞山運河)は、
2000年創設の(社)土木学会選奨土木遺産の初年度10選に認定された。
それを記念して建てたもので、北上運河と鳴瀬川の交差点の堤防上に設定されている。
突堤の築造用材である井内石で建てられた。

           (写真・紹介文ともに野蒜築港資料室のHPから)


           (貞山運河の魅力発見協議会のHPから)

下は震災後の様子です。(写真は後藤光亀氏と後藤浩佳氏によるもの)

碑は地面とともに崩れ落ちていました。
浪によって地面が削りとられたのでしょう。


測候所の跡と考えられている場所にも碑があります。

明治14年(1881)に東北初の測候所として開設した場所。
築港放棄後の20年に宮城県に移管され石巻に移転した。
碑は昭和20年6月に仙台地方気象台長が設置、同49年に修復された。
近くには測候所の門柱であったといわれるレンガ造の角柱があり、数個のレンガには刻印が見られる 。

          (写真・紹介文ともに野蒜築港資料室のHPから)


震災後の写真です。(写真は後藤光亀氏と後藤浩佳氏によるもの)
原型を留めていません。

上記した碑の説明にもある通り、門柱であったといわれる構造物のレンガの中には
「中」という刻印が見られるものがありました。
刻印レンガはその製造元を示しています。
その門柱も流されてしまったようです。

機会をみつけて探しに行きたいと思います。