新市街地 3

草原が広がる新市街地跡に残されたものに、
紀功之碑(内務一等属黒澤敬徳碑)があります。


工事に殉じた土木局野蒜出張所第二代所長黒澤敬徳氏の功績を称え、
彼の経歴と野蒜築港事業の壮大さを刻んだ井内石製の大きな碑(明治17年(1884)2月建立)。
そばには工事に使用されたといわれる石のローラー(写真右下部)が二基あり、大きいほうには「土木」の刻印がある。

            (写真・説明文ともに野蒜築港資料室HPより)

黒澤敬徳は野蒜築港工事において、土木局出張所の2代目の所長を務めた人です。
現場で工事の指揮をとっていましたが、明治15年に病気で倒れ、
明治16年に享年45歳で亡くなります。

トラブル続きの工事、国と現場の間にたって相当苦労したことでしょう。
当時の新聞には「先頃から脳病に懸り」と書かれています。
また後に工事を振り返った座談会では「神経衰弱になって遂に気が違って亡くなった」
と話されています。

明治15年の新聞では、当時の土木局長がさっぱり現地を訪れないことが批判されていました。
この碑は明治17年、まだ野蒜で工事が行われていた当時に建てられています。
碑文と合わせ、敬徳が現場で慕われていたことが推察されます。

下が、この紀功之碑の様子です。

           (写真:後藤光亀氏及び後藤浩佳氏)
やはり、流され倒れてしまいました。


紀功之碑を別角度から写した震災以前の写真です。
手前にコンクリートの構造物が見えます。
この構造物は残っているようです。

           (写真:後藤光亀氏及び後藤浩佳氏)
碑は移動していますが、それほど遠くにはいっていないことがわかります。
ローラーがどこにいってしまったか、気になります。


再び震災前の写真です。写真の奥には二股の松の木が生えています。


googleで見る限り、この松が震災後の写真に写っている松の木のようにも思われます。

この松の木の根元にはお地蔵さまが立っていました。

この新市街地に後に水道をひくときに人骨が出てきたことがあったそうです。
その骨が出てきた場所のそばに、当時付近に住んでいた安倍さんという方が
このお地蔵さんを寄付しました。

安倍さんは、浜市に移転した後もお地蔵さまを守っていました。
このお地蔵さまも探しに行かなければと思います。