野蒜と海

野蒜海岸に佇む不老山のその呼び名は「絶勝の地びとをして老いざらしむに足る」と
伊達政宗が名付けたと言われています。
昔から風光明媚な場所として知られていました。

           (東北芸術工科大学東北文化研究所アーカイブスより)

かつては波に洗われていたこの場所は、今では堆積した砂に覆われています。
この砂浜もまた、海水浴場として古くから親しまれて来ました。

海水浴は明治に始まり、医療の一種とされていたと言います
野蒜でも海水浴をすると風邪をひかないと言われていたという話を聞くことができます。

海水浴は地元の人たちだけのものではありませんでした。

宮城電鉄が野蒜の駅を東北須磨と名付けたことは、前にも触れました。

夏は毎日臨時電車の海水浴号を増発したそうです。
1ヶ月ほどの逗留に毎年訪れる人たちもいたといいます。

佐藤順亮さんが石巻かほくに書いた「ふるさと賛歌 -東北須磨-」には、次のような一文があります。

「電車の沿線に遠い大崎古川地方からは、土用の丑(うし)の日ともなれば、
 夜半に家を出て鳴瀬川沿いの道を荷馬車に乗った老若男女が朝日の昇るころ、
 延々と長蛇の列をつくり歓声と喧騒を乗せて野蒜海岸に到着します。」

大崎地方と野蒜周辺は鳴瀬川を仲立ちとして深い繋がりがあります。
そもそもかつて舟運が主流だった時代には、鳴瀬川では本国米の輸送が盛んに行われ、
三本木(大崎市)から野蒜を経由して石巻港へ運び、伝馬船に積み替えて江戸・大阪に運んだと言われています。

加美町宮崎の熊野神社には「お潮垢離(しおごり)」という行事があり、
ご神体を鳴瀬川に沿ってみこしで運び、東松島市浜市地区の浜で清めて再び神社に戻します。
浜降りとも呼ばれるこの神事は、まるで海水浴です。

海水浴客が連ねる馬車は、大量の馬糞をもたらしました。
その馬糞の掃除が、いいお小遣い稼ぎになったという話を聞くこともできます。

北須磨駅前には会社直営のホテルが建ち、長寿館というキャバレーもできたといいます。
海岸が仮飛行場として訪問飛行が行われたこともありました。



               (2011/04/22撮影)
津浪後の不老山周辺です。
既に片付けが行われた様子もあり、海岸も海も不思議なほどに穏やかに見えました。
それでもはがれたアスファルトと赤茶けた草が潮を被ったことを物語っています。