河北新報の記事 宮戸 里浜貝塚

昨日(2011/05/14)の河北新報に宮戸島の里浜貝塚に関する記事が載っています。
縄文人 安全性認識か 貝塚津波直撃免れる 東松島」というタイトルで
里浜が宮戸島にある他の浜に比べて被害が小さかったこと、
それを認識して縄文人は里浜を選んで定住していたのではないかと書かれています。

里浜貝塚は 縄文時代前期(約6800年前)から弥生時代中期にかけての集落跡であり、
日本最大級の規模(東西約640m、南北約200m)を持っています。
この里浜貝塚からは、縄文人の人骨も多数発掘されています。
中には赤色顔料に覆われて土器棺に納められた胎児もありました。
まさに「供養と再生を願った『送りの場』」(奥松島縄文村歴史資料館HPより)だったことがわかります。

青森県三内丸山遺跡の墓から出土したのも赤色顔料でした。
縄文の人々の死生観がここに覗いています。

赤坂憲雄は死穢を論じるときなどに、縄文人の死生観をたびたび紹介してきました。
縄文中期あたりにはムラの真ん中に死者たちが埋葬されたことをあげ
ひとびとがつまり死者と隣り合わせに生きていたと書いています。
それは、弥生以降に見られる生活から遠ざけられた死との対比を表わします。

里浜の貝塚もまた同様に生活の場に近いものだったといいます。
ここに住む人々はもちろん漁が生業の大きな位置を占めていました。
しかし、彼らは浜辺には住まず、比較的高台である位置を選んでいたことになります。

貝塚の発掘からは、木の実や果実、山菜やイモなどの利用が考えられるといいます。
狩猟や採集がまた彼らの生業であったことが、浜に近接しなかった理由なのかもしれません。

ともあれ、この貝塚は、沿岸部の暮らしを考えていくうえで
もしかすると1つの示唆になるのではないだろうか、などと思います。