披歴される意識

野蒜には直接は関係のない話です。

先週末に行われたある学会の話を聞きました。
私が直接その場にいた訳ではないので、正確性は欠いています。

「 災害時における栄養・食糧問題とその対策を考える」
といった内容のシンポジウムが行われたそうです。
緊急企画だったそうですから、準備不足はある程度は仕方ないのかもしれません。
それでも被災地に行った人からの報告などもあったようです。

しかし全体的に的外れの議論が続いたと、話してくれた人は言っていました。
被災地で栄養をどのように摂取していくか、という大きなテーマがあるわけですが
それに対して自助、共助、公助という視点で語られていたらしいです。
随分と自助の話が大きな位置を占めていたように感じられたようです。
例えば食糧の備蓄の話が出たということですが、その中でも
被災地はひとくくりにされ、地震のみの被害だったところも津浪の被害を受けたところも
区別なく論じられていたといいます。

そもそも、津浪の被害が酷かったところは、何もかもが流されているわけです。
冷蔵庫どころか、自炊を行うための鍋釜すら、何も残っていない、ということを
全く理解していないようだった、と聞きました。

「東北には芋煮がある」
と司会者は言ったそうです。
恐らく、屋外で自炊をする文化があるという風に言いたかったのだろうということでした。
瓦礫を燃して作ればいいと、酒の席ではありません、シンポジウムの演台の上でその司会者は言ったそうです。
もちろん、客席には東北から訪れた人々も少なからずいたのです。

私は卑屈なのかもしれません。
これまでも、こういった物言いに怒りを表しては、それをたしなめられてきました。
時代は変わっているんだと聞かされてきました。

でもやはり私は既視感と眩暈を覚えます。
ひとつひとつは小さな馬鹿な戯言なのかもしれません。
しかし、これが結局は「中央」の姿であると、改めて失望します。

この言葉が学会の総意であるとは全く思いませんし(会場からは反論が出たそうです)
この司会者を云々するものでもありません。

しかし、このような軽率な言葉にこそ、あくまで他者である
距離感のある中央の姿というものが露呈していると私は思います。

このような視線の対象は、東北に限ったことではないのだろうと思います。
周縁化という現象がたまたま観測された、そういうことなのでしょう。
それでも、これまで累々と積み上げられてきた東北の在り様は
冷静に、しかし、気持を掘り起こして、考える必要がある、
この間も同じようなことを書きましたが、改めて思い知らされました。