経験の痕跡
明治29年の三陸津浪に関する新聞記事の中に次のようなものがあります。
水界の名称
水界隧道は米谷と志津川の中間である山の上にあり、
洞口を出ると志津川沖を一望に収めることができる。
この水界という名称は、隧道の南東に位置する旧道の辺りを指しており
これは往古大海嘯のときに(慶長六年の海嘯であろう)
潮水がここまで上がってきたので、このように名付けたという。
海嘯の際は海岸の広狭によって、意外なところまで水力が及ぶことが往々にしてあった。
水界の名称の話もこじつけなどと排斥するべきではない。
記憶が薄れ、或いは上書きされていっても、形を残して留まっているもの。
そういうものが色々とあるように思います。
宮古の石碑や震災後話題になった仙台市若林区にある浪分神社もそうでしょう。
更にネット上である噂が流れました。
「今回の津浪では、末の松山を波が越したらしい」
結局はしばらくしてから、今回もやはり末の松山を波は越さなかったのだと
多くの人の報告がありました。
有名な歌枕である「末の松山」ですが、その場所の候補地の1つが多賀城にあります。
多賀城は仙台市の西北に隣接した場所で
かつて国府がおかれたことで知られています。
末の松山近くの駐車場には
塀にはっきりと津浪の跡が残っています。
周辺の地形は平坦ですが、末の松山にむかって高台になります。
横に立つ塀をみると、この坂の途中まで浪がきたのだということがわかります。
下方にある宝国寺入り口の碑です。
お寺には浪が到達しています。
web上で見つけた論文によると
貞観の津浪のあと、堆積した土の上に繁茂したのが宮城野萩ではなかったかとあります。
もしかすると、宮城野萩もまた1つの痕跡なのかもしれません。