誰の物語

高台への移住に対しての漁師からの反発は前から伝えられていました。
おそらくこれらニュースで伝えられる反発は、記事の文面ほど単純なものではなく、
集落や漁港の集約など、さまざまな面をもっているのだと思います。

一方「識者」の言としても、安直な高台移住案に対する批判をしばしば目にします。
そこでは、現地を知らない中央の安易な押しつけに対する反発が中心となっているように思われます。

実際に漁業を担う人たちの言葉は、漁港のこれからを考える上で何よりも重いものです。
また中央の提案がときに能天気に見えることもよくわかります。
しかし最近、高台移住に対するこれらの批判の中で
「漁師は死をも恐れない職」
というような書かれ方をされていたのを目にして(正確な文章ではありませんが)違和感を覚えました。

海のそばに家が建つということは、その家族がそこにはいるということです。
そして保育園、幼稚園、小学校、病院、特養ホームなども付近に作られるでしょう。
家庭に老人や小さい子供がいることもたくさんあるでしょう。

津波てんでんこ。
それは誰のことも構えないということです。
ベッドに寝ている人、体の不自由な人、小さな子供たち、
そういう人たちが、そしてそういう人たちを守ろうとして亡くなった人たちを
今回たくさんたくさん見たはずです。

リスクを引き受けた生き方の選択は自由です。
だけれど、少なくとも子供たちはその選択をしていない存在です。
その安全を可能な限り保障するのは大人の絶対的な義務だと私は思います。

そんなことは当然だと、誰もが思うかもしれません。
でも高台移住に対する様々な意見が、「実態を知らない中央 対 現場である地域」といった構図になり
「勇壮な漁師」というロマンを持った物語に取り込まれていくことは考えられるように思います。

確かに「弱者に対する配慮」のような取り上げ方はないわけではありません。
しかし、少なくとも私が目にするメディアの中では、前記のようなストーリーが
始まっているように思われます。
そしてそのような中で「誰が語り得るのか、誰が語り得ないのか」という問いかけは
明確なものは未だないような気がしています。(勘違いだったらごめんなさい)

発すべき誰が、何を発していくのか、今試されています。