2013年のはじまり

随分と時間がたってしまいましたが
今年もよろしくお願いいたします。

実は新年早々インフルエンザに罹るなど、少々寝込む日々を送っておりました。
この冬も寒い日が続き、仮設住宅の方々がとても気になります。


雪がうっすら残る1月の新町です。


東名運河を渡り新町へ行くには不動橋を通ります。
この不動橋は、新たな堤防の建設によりなくなってしまうそうです。
何もなくなってしまうと不便だということで、何か通路のようなものは
計画されるようですが、「不動橋」はなくなってしまいます。


現在の橋は昭和40年3月の竣工ですが
野蒜築港時代の明治19年には「浮動橋」として既にかかっていました。


不動橋から見た東名運河。凍っています。

人が戻って来ていないということなのでしょう。


野蒜駅では枕木?の搬出を行っていました。


ずっと駅の横に置かれていたものです。
少しずつ駅の撤去も始まるのかもしれません。

他にも少しずつ様々な工事が進んでいます。

メガソーラーの工事です。
河北でも報道されていました。

場所はここです。

瓦礫の処理が行われていた場所です。

この工事に従事する人たちむけだと思うのですが、次のような表示をいくつか見ました。

どうも、野蒜小学校の方に誘導しているようなのですが、
もしまた津波が来るようなときに、洲崎の工事現場から野蒜小学校まで
逃げることになっているのでしょうか。もし、そうだと、ちょっと遠くないでしょうか。
勘違いかもしれませんが。

本を出しました[本の紹介]

宣伝で恐縮です。

長年、野蒜で教えて頂いたこと、調べたことをまとめたものが本になりました。

幻の野蒜築港 〔明治初頭、東北開発の夢〕

幻の野蒜築港 〔明治初頭、東北開発の夢〕

野蒜築港という出来事は、近代の東北を考えるときにとても象徴的です。
震災を経た今となると、それはより一層際立ちます。
だから、是非今からでも記憶にとどめてほしい、考えて欲しいという気持ちで書きました。

ただそれだけではなくて、築港という出来事を当時の人々がどのように受け止めていたのか
築港という出来事のまわりで人々はどのように暮らし、生きていたのか
少し遠い過去ですが、いくらかリアリティをもって想像できるような
そういったアプローチを目指しました。

野蒜築港や東北の歴史に興味のある方、もし良かったら読んでみてください。

11月に資料室が取り壊されました

以前、書いたように、11月末に資料室の取り壊しが行われました。
時間が経ってしまいましたが、その様子を少しご報告いたします。

11月20日、とてもよく晴れた日でした。

すっかり冬の景色となった新町。

いつも定点としていたこの場所で、取り壊しが始まります。

重機も来ています。

取り壊しは一気に行われるものかと想像していましたが、
畳をあげ、断熱材を撤去するなど、丁寧な分別が手作業で行われています。

なので、この日には外観にはそれほどの変化はありませんでした。

22日に寄ったときは、外壁の撤去が始まっていました。


それと並行して分別も行われています。
手間のかかる作業ですが、この積み重ねのおかげで
東松島市の震災瓦礫の処理は、進むのが速いのでしょう。

28日です。初日から一週間が経過しています。
とうとう取り壊しは資料室部分に進んでいました。

1階部分がコミュニティセンターで、2階北側に資料室がありました。
ぽっかりと現れているのが、資料室部分です。

コミュニティセンター部分はかなり撤去が進んでいます。

11月30日。

この写真ではわかりにくいのですが、ほとんどが取り壊されました。
手前に見えている構造物は、訪れたことのある方はわかると思うのですが
入口手前の水車です。

資料室があった場所は、野蒜築港工事の事務所が置かれたり
その後役場や小学校も建てられた、地域にとって意味のある場所です。
鳴瀬川河口で、海も目の前に広がる、景色のよい場所でもあります。
堤防が建てられたあとに、その立地を活用してもらえたらと希望します。

もし、新しい野蒜駅前に野蒜築港資料室が出来たとしても
あまりにも現地と離れてしまっています。市街地跡も恐らく見えないのではないでしょうか。

鳴瀬川河口には今でも釣り客やサーファーが訪れています。
今後、観光地として活かしていくことを考えても、
津波の危険があるときに避難できる場所の確保が必要となります。
先日も大きな地震があり、津波が来ました。
もし、今鳴瀬川河口にいたら、どこに逃げたらいいのでしょう。
土地勘のない人にはわからないと思います。

避難路の確保と並んで優先的に取り組むべきことでしょう。

資料室の取り壊し

野蒜築港資料室の取り壊しが20日に決まったそうです。

下の新町公民館には震災時、多くの人が避難しました。
付近で誘導していた方の中には亡くなった方が何人もいます。

トイレの鏡には、今も水の高さの跡が残っています。

いずれ、取り壊されるとわかっていましたが、
それでもやはり複雑な思いにはなります。

取り壊される前に資料室の姿を見ておきたい方は、是非お早めにお出かけください。

防潮堤

10月下旬の野蒜です。

晩秋の気配が漂ってきました。

セイタカアワダチソウとコスモスが咲いていますが


風も波も強い日だったこともあり、寒々しい雰囲気です。

新町近くの松林は、根腐れした松の撤去が進んで
すっかり見通しの良い場所になっています。

キャタピラの跡が生々しいです。


作業は現在も進行中です。

さて、資料室の建つ鳴瀬川沿いに

防潮堤のゲージが出来ていました。

鳴瀬川河口部堤防高案によると
T.P.+7.2m (海抜から7.2m)とのことです。

震災以前の高さも6.2mだったとのことで、+1.0m。
確かにもともとここは高さがありましたから、それほど高くなる感じはないような気もします。
出来て見ないとわからないのかもしれませんが。

ただ、堤防建設にあたって資料室を含めた新町公民館の建物は取り壊しは避けられないでしょう。

海岸沿いや運河沿いでは、まだ何もゲージ等はないようです。
鳴瀬川沿いは国交省で、海岸沿いは県の管轄のようですので、恐らくその違いでしょう。

サクラカフェ

先日、新東名にあるカフェに行く機会がありました。

ここは、東仙台の教会が中心となって
子供たちへ学習支援などの活動を行っているサクラ・ハウスという場所です。

その場所で週に2日、カフェが開かれています。(11月までのようです)

トビーとアナリーは南アフリカから来日しているそうです。

日本語も堪能で、フレンドリーな方たちです。

手作りのケーキや挽きたての珈琲を頂きました。


この日ケーキは3種類!あったのですが
これはオランダキャラメルケーキ。
何しろ野蒜築港の地ですから、オランダと名がついたケーキを選んでしまいます。
その他、ガトーショコラやキャロットケーキなど、どれも美味しそうでした。


器は好きなものを自分で選びます。

新東名は家の工事も目立ち、随分と人が戻ってきているようです。
立ち寄れる場所があるのは素敵です。

10月の予定です。

9月末

アップするのに時間がかかってしまっておりますが、先月の野蒜です。

震災から1年半が経過しました。
長いのか、短いのか、景色を見ながらもよくわからない思いです。


資料室からの景色は、季節だけが移ろっていきます。


この日は松川さんとご一緒させていただいて
資料室内からの景色も。

新市街地跡にも行きました。

黒澤敬徳の碑も、丈の高い草に囲まれています。


中の橋の近くに、このような構造物ができていました。
置いてあるのではなく、固定されている感じでしょうか。
中の橋から中心部にむかう都市計画の軸が途切れてしまっています。
やはり、市街地跡を有効利用とかは考えていないのでしょう。

多分、これは始まりなのだろうと思いました。

この日は前から気になっていたこのお店へ。

東名運河から洲崎方面へ向かう道に入ってすぐ左にあります。
かなり前からオープンしていたのは知っていたのですが
入るチャンスがなくて、ようやく行けました。

名物と書いてあったニシンうどんを注文。

このニシンの量、凄いです。
この他にラーメンやカレーも人気のようでした。


野菜なども売っていました。