2011-01-01から1年間の記事一覧

書籍『津波と村』

既にご存知の方も多いかと思いますが 福島県生まれの研究者(民俗・地理・歴史にまたがっています) 山口弥一郎の著作『津波と村』が復刊されます。東北をフィールドに膨大な研究を行った山口弥一郎が 昭和の三陸津浪の後の三陸の集落の移動について丹念な調…

誰の物語

高台への移住に対しての漁師からの反発は前から伝えられていました。 おそらくこれらニュースで伝えられる反発は、記事の文面ほど単純なものではなく、 集落や漁港の集約など、さまざまな面をもっているのだと思います。一方「識者」の言としても、安直な高…

神社いくつか

野蒜付近の神社をいくつか回ってみました。海津見神社は亀岡の鎮守です。 鳴瀬町誌によると、「昔着船(家号で伊達藩の宿泊所、現亀岡の斉藤利己宅)の先祖が余慶(余景)浜で 引網をしていると、その網の中に毘沙門像がかかって来た、それを祭った。 木像は…

高台。

6月16日の読売新聞の記事です。復興へ遺跡が難題…高台に集落跡、事前調査必要高台への移住のために土地を調査すると、遺跡が出てきてしまうということです。 考古の先生の話では、海に近い低い場所からは遺跡は出てこないそうです。 それは波に流されて消え…

多賀城という場所

多賀城市は、仙台のベッドタウン的な側面も大きく 市街地や工業地の多い場所です。 東北学院大学の工学部のキャンパスもあります。 JR仙石線多賀城駅の目の前に上記した末の松山はあります。そしてまたすぐ傍には国道45号線が走っています。 仙台から塩釜、…

経験の痕跡

明治29年の三陸津浪に関する新聞記事の中に次のようなものがあります。 水界の名称 水界隧道は米谷と志津川の中間である山の上にあり、 洞口を出ると志津川沖を一望に収めることができる。 この水界という名称は、隧道の南東に位置する旧道の辺りを指してお…

もうすぐ3カ月

まもなく3カ月です。 (写真は6/6撮影) 資料室は変わらず佇んでいます。 同じ被災地でも2階が残ったような家々には、 住んでいる人、片付けに来る人などの気配がありますが 土台だけを残す一帯は森閑としています。 東名運河の水門は、開閉ができなくなって…

神社・仏閣

南三陸町出身の山内さんのブログに 被災を免れた神社の話が出ていました。5月31日の「死なない」で名族旧家が高台に家を持っているという記事を紹介しましたが その記事の続きには「神社仏閣」という項もあります。 「神社仏閣」 神社仏閣もまた難を逃れたも…

悪水吐暗渠の発掘

今回の津波により北上運河沿いの護岸が削られて、 野蒜の新市街地跡に敷設された悪水吐暗渠がその姿をあらわしています。 その調査が先日行われました。残念ながら私は当日は都合が悪く行けませんでしたが この新たな発見によって野蒜築港跡に更なる関心が集…

記憶/記録/想起

明治29年7月4日の新聞では志津川で聞いた話として 安政3年に起きた津浪について次のように触れられています。 志津川には度々津波があるが、特に41年前7月23日(安政3年)の津浪の水かさは 今回のものよりも高く、これを10とすれば今回は7の水である。 ただ…

死なない。

明治29年7月12日、津浪発生からまもなく1ヶ月の頃に 「宅地改占」という記事があります。 (以下、記事は要約です) 漁夫たちがなるべく海に近ところに住むのは、日々の仕事に便利だからである。 しかし、いにしえの遠慮ある人々は、むしろ多少の不便を忍ん…

瓦礫の行方

震災から80日が経ちました。 昨日(5/29)は野蒜地区を通って鹿妻にむかいました。 東名運河沿いでは電信柱の建設が進んでいました。 もうすぐ資料室の近くまで到達しそうです。東名運河も漂流物がほとんど片付けられていました。 長音寺の屋根があった場所…

東松島西地区復興祭

ベガルタサポーター仲間からお酒の協力をもらい 東松島西地区復興祭に届けて来ました。あいにくの雨模様でしたが、大勢の人が集まって盛況でした。 ボランティアも相当の数がいました。 食べ物や日用品など多くのブースが並んでいます。 衣料や学用品などが…

復興祭

今週末、東松島市復興祭が行われるそうです。 場所は矢本ですが、石巻からも被災者を呼ぶようです。お酒の募集があるようなので、せめてそれだけでも届けに行きたいと思います。 - 追記 よく調べると東松島西地区復興祭なのですね。 企画の母体がボランティ…

バラバラさの受容

あるシンポジウムに行ってきました。その中で、震災直後のラジオ放送の話がでました。 ローカルのFM局の話です。放送の中でインフラの復旧などといった情報を流すときには、必ず 「地域によって復旧の進み方はさまざまです」 というような説明がつけられるよ…

女性視点の要請

奥羽日日新聞 明治29年7月2日に 「上流婦人の視察を希望す」という記事があります。 津浪が起きたのが6月15日なので、2週間を過ぎたころです。 大海嘯の被害以来、実地視察はたくさんきているのに、婦人の視察者がいないことが遺憾である。 ただし、旅行には…

大海嘯

日本列島は長い歴史の中、数多くの津浪を受けてきました。 野蒜築港が頓挫したおよそ10年後、明治29年にも大きな津浪が三陸を襲いました。野蒜はそのときどうだったのだろうか、と気になっていました。 気持ちを切り替えた暮らしに、津浪はどのような影響を…

披歴される意識

野蒜には直接は関係のない話です。先週末に行われたある学会の話を聞きました。 私が直接その場にいた訳ではないので、正確性は欠いています。「 災害時における栄養・食糧問題とその対策を考える」 といった内容のシンポジウムが行われたそうです。 緊急企…

河北新報の記事 宮戸 里浜貝塚

昨日(2011/05/14)の河北新報に宮戸島の里浜貝塚に関する記事が載っています。 「縄文人 安全性認識か 貝塚、津波直撃免れる 東松島」というタイトルで 里浜が宮戸島にある他の浜に比べて被害が小さかったこと、 それを認識して縄文人は里浜を選んで定住し…

2ヶ月 市街地跡

2011/05/09の撮影です。市街地跡、黒澤敬徳碑の辺りです。 折れながらも残る松の手前に、流された敬徳の碑が倒れています。もしかして木の根元にお地蔵さまがひっかかっていないかと 漂流物の下を覗いてみましたが、やはり流されてしまったようです。一様に…

2ヶ月

2ヶ月が経とうとしています。津浪による混沌とした風景は、随分と片付けが進んでいました。 以下全て2011/05/09の撮影です。 資料室の入口のこの位置には、家の2階だけが流れ着いていましたが 解体されたようです。 東名運河の水門です。 以前の写真と比較す…

浜市

鳴瀬川をはさんで、野蒜の対岸が浜市です。 新市街地跡に隣接する地域です。 野蒜に比べ平地が海側に広かったこともあり、 津浪は仙石線を越え国道45号線をも越えました。 多くの家が土台だけを残して壊れています。 (2011/04/04撮影) 浜市には「浜市ドヤ…

河北新報に記事

本日の河北新報に、野蒜築港跡の津波被害についての 記事が載っています。東松島市の津浪被害はとても大きいため、自治体としても、 こちらに手が回せるようになるには時間がかかるのではないかと想像しております。>どうやって流失した土台を探し、復元を…

私たちは我慢強いか

4月11日の河北新報の社説の中に以下のような文章がありました。「震災後、『東北の人は我慢強い』というコメントを幾度となく耳にした。 その多くは美徳として語られているのだが、少し違うのではないか」確かに、この約2カ月の間そのような言葉を再々目にし…

東名

野蒜の西、松島側が東名です。 鳴瀬川の河口から続く東名運河は、東名を抜けて松島湾に繋がります。東名には古くから塩田がありました。 享和2年(1802)に建てられたという東薺塩場の碑が如月庵に残っています。東名の如月庵の境内に仙台藩製塩業の功労者で…

野蒜と海 3

明治元年8月、榎本武揚や土方歳三らが乗った開陽丸が東名に着きました。 旧幕府軍は東名の浜で訓練を行ったといいます。 野蒜の人たちと旧幕府軍の邂逅です。 お祖父さんが一緒に北海道に行ったなどという話も聞くことができます。鰯山という野蒜海岸にある…

野蒜と海 2

明治15年10月に、野蒜では突堤落成式が盛大に行われます。 この突堤は第一期工事による内港のものであり、 この後に第二期工事として外港の突堤が造られる予定でした。 その場所が宮戸島です。 宮戸島の東側に予定防波堤と書かれています。宮戸島は野蒜海岸…

突然ですが、今お世話になっている松島町の施設も明日で退去です。 こんな場所が隣町にあったことを知らなかったのが残念な位 自然環境に恵まれていました。次に提案された避難所は更に家や町から遠くなります。 車の免許を持たない私にとっては厳しい状況な…

石井閘門

野蒜から石巻へと続く運河が北上運河です。 (写真:野蒜築港資料室HPより) 北上運河が北上川と繋がるところに石井閘門があります。 水位調節と船の運航等のために築造された煉瓦と石による西洋式閘門です。 明治13年竣工で現存最古であり、平成14年5月には…

野蒜と海

野蒜海岸に佇む不老山のその呼び名は「絶勝の地びとをして老いざらしむに足る」と 伊達政宗が名付けたと言われています。 昔から風光明媚な場所として知られていました。 (東北芸術工科大学東北文化研究所アーカイブスより)かつては波に洗われていたこの場…